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【文Ⅲ→社学→博報堂→独立】歴史好きの東大生が社会学科、広告代理店を選んだ理由とは?
インタビュー・レポ
今回は、理科Ⅱ類から工学部都市工学科に進学され、サントリー株式会社に就職された一方で「パワポ芸人」としてスライド作成のノウハウなどをTwitter上で発信し一躍有名に。現在は独立され株式会社Cataca代表としての顔も持つ、豊間根青地さんのインタビューをお届けします。
――なぜ東大の理科Ⅱ類を目指されたのでしょうか?
僕は高校の教科の中では生物が好きで、学部は農学部に行こうと思っていました。それで京都大学の農学部に食品生物化学科って学科があって面白そうだなとは思っていたんですけど、どうせ目指すなら東大を目指すかってことで目指しました。そこまで深い理由はなかった気がします。あとは両親が東大で、自分以外(の兄と姉)は東大ではなかったので、母に「お父さんは子供の中で1人くらい東大に行って欲しいと思っていると思うよ」といったようなことを言われていたっていうのもあるかもしれないです。
――農学部に進学しようとしていた豊間根さんですが、最終的に工学部都市工学科に進学しています。その辺りの理由はなんだったのでしょうか?
もちろん初めは農学部に行こうとしていたんですけど、駒場で生命科学っていう必修の生物の授業があるじゃないですか、こういう生物のこういう細胞の中でこういうたんぱく質が…みたいな話をやるわけなんですけど、それに興味ないなって思っちゃったんですよね。もっと生活に直結することをやりたいなって思ったんです。
僕はもともと数学と歴史が嫌いで、どっちがより嫌いだろうと思った時に歴史だったから理系に進んだくらいの人間なので、工学部と理学部は選択肢から外れていましたでも、ある時ボート部の先輩に、「工学部の社会基盤とか都市工は理系理系していないからおすすめだよ」と言われて、なら進むかーって感じになりました。しかも、実は僕の父親も都市工出身なんですよね。
――なんとなく引っ張られていますね(笑) 都市工ではどのようなことを学びましたか?
僕がいたのは学部だけなんですけど、本当に都市に関してあらゆることをやります。都市デザインから法律、コミュニティまでですね。実習では「ここに建物を建てるならどうするか」や横須賀市の「マスタープラン」っていう市全体の方針を考えてみることもやりました。街に関することは何でもやってましたね。本当に文系と理系の間みたいな。
――学生時代にやっていてよかったことはありますか?
まずあるのはボート部ですね、Hard Thingsでした。若い頃の苦労は買ってでもしろって言葉があると思うんですけど、これは一定数あるなと思います。ボート部はほぼ毎日練習があって、戸田の合宿所に週5日くらい泊まっているのが実情でした。早朝に起きて2時間くらいボートを漕いで、そこから学校行って授業を受けて、帰って筋トレして練習っていうスケジュールでした(笑)ボートは2000mの直線で勝負が決まるんですけど、それを漕ぐ6分半くらいずっと全力で漕ぎ続けるんです。これは本当にしんどくて、あれより辛い瞬間はないなと思います。それこそ海外とかだと、大学でボートをやっていたってことは兵役をくぐって来たくらいの勲章として見られることもあるみたいです。
もう一つは色々なバイトを経験したことですね。やっぱり社会人になるとそういうこと(色々なアルバイトを経験すること)ってできなくなりますから、学生時代にやって色々な意味で視野を広げておくといいと思います。
――豊間根さんの学生時代のお話を聞いていると、そのときどきの自分の感じたこと、心の声に従っている印象を受けました。また、所属されていたボート部のお話をしているときは特に楽しそうにされていて、運動部の絆の深さや、ハードさ故の思い出深さ、誇りに思っていることが伝わってきました。
――理系の学部に進学されているので、普通であれば院進すると思うのですが、学部で就職されています。なぜなのでしょうか?
都市工は院進する人が7割から8割いるので、僕も院進するつもりでした。ただ都市工の「地理システム情報論」という授業の最後に教授が、「就職するならさっさとした方がいい、都市工はリベラルアーツっぽいので、院に行く意味はあまりない。もし研究者、ドクターまで行くんだったら院に行く意味はあるけど、そうでないなら早く就職した方がいい」って言われて(笑)仕事もボートとかと一緒で練習が必要だし、中途半端に院進するくらいなら就職した方がいいと思いました。普通教授は院に行かせたがるじゃないですか、でもそんな先生がわざわざ授業の最後に言うくらいなら本当にそうなんだなと思って就職しようと思いました。
――その後どのような就職活動をされたのでしょうか?
その授業が3年生の後期だったので、その話を聞いたのが3年生の1月とかで就職活動を始めるのが遅かったんですよね。だから東大生の意識高い人がいくような、外資の金融や外資のコンサルとかは締め切られていて。
そもそも最初の軸としては、「面白いものを作りたい」という思いがありました。だからテレビ局に行きたいと思い、急いで日テレとテレ朝のES(エントリーシート)を書いて、日テレは1次で落ち、テレ朝は4次くらいまで行ったんですけど落ちてしまったんですよね。そこでどうしようと思い、そこまでは狭義の「面白い」、コンテンツが「面白い」という所だけしか見ていなかったのを、もっと広げてみようと思いました。商品が面白いとか、事業を作る面白さとか広告とかって感じです。だからサントリーやリクルート系列、電博なんかの代理店を受けていました。
ただ、あまり多くの会社を受けていないです。例えばメーカーではサントリーしか受けていないですし。
――メーカーでサントリーしか受けていないというのはすごいですね。
飲料メーカーを受けようと思ったというより、サントリーを受けようと思ったんですよね。広告や商品も元々好きだったので、受けてみようと思い経ちました。
――結果的にはサントリーに入社されています。その決め手は何だったのでしょうか。
内定をいただいたのは最終的に3社で、その中でサントリーとアクセンチュアで悩んでいました。ただ、アクセンチュアは中途採用をたくさんやっているのでサントリーに入社して「違うな」と思っても、最悪後から入れるかなって思ったんですよ。でもその逆は難しそうだったので、とりあえずサントリーに入ってみよう、そのくらいの気持ちで入社しました。
――就職時点での人生設計みたいなものはありましたか?
具体的なものはほとんどなかったですね。ただ全く見えていなかった中でも、一生勤め上げるとも思っていなかったです。いつか自分の力で稼ぐ、独立したいみたいなところは就活前から考えていました。
――サントリーでの業務について伺ってもよろしいでしょうか?
初期配属はゴマのサプリ「セサミン」で知られる健康食品のウエルネスでした。最初の配属先はお客様センターの統括をしている部署で、見込み客に電話でコミュニケ―ションをとって定期的な購入をしていただける方をいかに増やすかを考える仕事をしていました。3年半経った2020年の秋には主にWEBの広告媒体を運用する部署に異動し、広告枠のバイイングやアロケーションなどの業務を行っていました。
――サントリー時代に印象に残っていることはありますか?
サントリーウエルネスのときに、KPIを変えようとしました。販売していた健康食品は定期購買のビジネスなので、1回契約してもらうことより、その後続けて契約してもらうことが大事だと思っていました。ただ、当時設定されていたKPIが初回契約の件数だったので、そこを継続契約に変えようとしました。ビジネス的には継続の方が重要な指標だと考えたからです。途中で部署異動になったこともあり最終的にはうまく行かなかったです。ただ、まだ新卒2年とか3年目の若い自分にも上長の人がきちんと話を聞いてくれて、理解してくれたのでやってみようかと動いてくれていました。そういうところはサントリーのいいところだと思います。やはり、「やってみなはれ」という精神を社員が根底に持っている感覚はあります。
――サントリー在職中、「パワポ芸人」として知名度を獲得されました。その辺りの経緯や社内の反応などいかがでしたか?
まずTwitterで「パワポ芸人」として広まって、そこからセミナーなど単発のお仕事をいただけるようになりました。それと同時に社内でも「豊間根パワポ上手いらしいな」となり、社内で勉強会を開いたり社内のナレッジシェアシステムで全社向けに教えたりしていました。
――独立は大きな決断だったと思いますが、決め手になったことは何だったのでしょうか?
一番の決め手は、やはり金銭的に「食べていけそう」だと感じたことですね。初期は単発のセミナーなどだけだったので生計を立てるのは難しいかなと思っていたのですが、知人の紹介でIR資料や資金調達資料で実績のある方と色々な仕事をさせていただくようになったことで、そうした問題も解決すると考えたからです。そもそも昔から「機会があれば独立してやろう」と思っていたので、その思いに従った感じもあります。
独立したのは2022年の1月なのですが、2021年の10月に初めて上司に報告しました。上司も含め、周囲の方は「豊間根はいつか独立する」と思っていた方が多かったですが…(笑)サントリーの同期は140人くらいいるのですが、現状独立したのは僕だけだと思います。
――院進する人が多い中での学部就職や、ほぼ周りが独立されていないような環境の中での独立など人とは違った選択を実際にされているところが印象に残りました。インタビューの中で、「その選択を正解にする」といった言葉をいただき、それは豊間根さんの選択や決断への考え方が垣間見えた瞬間で、どうしても取らなかった選択のことを考えてしまいがちな筆者にとっては心に刺さる言葉でした。
――なぜ「パワポ芸人」と呼ばれるようになったのでしょうか?
もともとTwitterが好きで、Twitterでいかに友達を笑わせられるか、バズらせられるかということを常に考えてツイートしていました。しかし、ある時から文字だと限界があるなと思って、画像でネタを作るようになりました。最初はAdobeのillustratorを使おうと思ったんですけど、サブスクがちょっと高かったので手近なパワポで始めたんですね。それが2020年の5月くらいからコロナで暇になったこともあり制作スピードが加速して、ネタを作りまくってTwitterに上げていたら、だんだんバズり始めた、といったような経緯です。つまり、とにかく「コンテンツを作ろう」と思ってがんばっていたらいつしか「パワポ芸人」になっていたんですよね。実は大学時代から「パワポ芸人」と呼ばれることはあったんですが、それは資料作成というよりはプレゼンで笑いを取りに来るという意味でした。昔から人前でプレゼンをするのが好きで、ボート部のサーオリや学科の発表でいかに人を楽しませるプレゼンができるかを常に研究していましたね。
――パワポを作成するのは結構大変だと思います。その辺り苦には思わなかったのでしょうか?
思わなかったですね。常日頃から、この辺をこういう風に切り取って、こういう風に変換したらウケそうだなとか、こういう視点で変えたらウケそうだなとかずっと考えているので。普通の会社員でちゃんと勤めながらよくそんなにパワポ作れるねとか言われたりしたんですけど、幸いそんなにめちゃくちゃ忙しくなかったので、帰ってきてから机向かってパソコン開いて1時間くらい作業すればできてました。やる気さえあれば誰でもできます。
――面白いコンテンツを作りたいと思ったのはいつ頃からなのでしょう?
高校時代の演劇の影響が大きいです。母校の都立国立高校は文化祭に力を入れていて、3年生は演劇をやるんです。そこで監督(クラスのリーダー)をやって、最優秀賞など3年生が取れる賞を総なめにしました。さらに劇の宣伝に作ったテルマエ・ロマエをもじった「トヨマエ・ロマエ」という動画が下級生にすごく人気になったりしました。(笑)一橋大学の中のモダン調のテルマエっぽい池に僕が水着で入っていて、突然溺れた次の瞬間には友達の家の風呂に浸かっているみたいなストーリー。それがYouTubeに上がっていて、結構多くの下級生が見てくれていたこともあって、5,6個下の全然知らない人に「豊間根さんですよね?」って言われるみたいなこともありました。そういう経験があったから、コンテンツ作りがより好きになったのかもしれません。
――「パワポ芸人」と言われるなかで最も印象的なことは何でしたか?
初めてパワポでお金をもらった時のことは印象に残っています。「桃太郎パワポ」がバズった時に、フリーでMCやナレーター、esportsの実況などをされている吉﨑智宏さんという方が、「○万円お支払いするので、僕のパワポをブラッシュアップしてほしいんです!」といきなりDMをくださったんですよね。その時はとにかくめちゃくちゃうれしくて、ウキウキでした。だって、それまでパワポはあくまで趣味であって、まさか自分のパワポがお金になるなんて思っていなかったですから。
――独立され、株式会社Catacaの代表として今後実現していきたいことは何でしょう?
自分の考えていることを形にして他人にうまく伝えられる人を増やしたいと思っています。やっぱり考えたことを表現するというのは難しいし、みんな苦手意識があります。でも、うまくできるとめちゃくちゃ楽しい。僕はそれが人より少し得意なので、今まで積み上げてきたメソッドを体系化して、多くの人に同じ楽しさを味わってほしいなと思っています。
会社としては、30歳までに胸を張って「会社を経営しています」と言えるくらいの組織を作りたいですね。今はまだ、個人事業主に毛が生えた程度のことしかできていないので…。まずはパワポという手段で縛って価値を提供していき、そこからはパワポに限らず「面白いものを作る」という2つのフェーズで価値を提供していきたいと考えています。
――最後に、東大生へメッセージをお願いします。
呼吸するようにできること、没頭できるものを探してほしいと思います。「人生で一番楽しい瞬間は何か」を明確にして、人生におけるその瞬間の割合を増やしていくためには何ができるかを考えてみてほしいです。
それは、僕にとっては「物事を噛み砕いて面白おかしく伝える」ということでした。誰もが僕のように運よくその「瞬間」を本業にまでもっていけるとは限らないと思いますが、ここを突き詰めることで間違いなく人生の幸福度が上がると思っています。
――「好きなことを仕事にする」ということはよく言われますが、なかなか没頭できるような「好きなこと」が見つからず何となく「いい会社」に入ることを目標にして卒業してしまう人は多いと思います。そんな中でも豊間根さんは自分の好きなことに向き合い続けたからこそ、好きなことで独立するということを実現されたのだと感じました。最後のメッセージに関して筆者は「好きなことに向き合え」ということだと受け止めています。自分の心の声に従って好きなことに向き合い続けた先に何かがある、それを信じて追求していくことが1つ幸せな生き方なのだとインタビュー中の豊間根さんを見ていて思った次第です。
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